麻生太郎さんといえば、元総理大臣として多くの人が知っている政治家ですよね。祖父が吉田茂という華麗なる一族出身で、現在も自民党副総裁として活躍されています。そんな麻生太郎さんですが、実は学生時代にはかなり意外なエピソードがたくさんあるんです。
学習院という名門校で学んだ麻生太郎さんですが、成績はあまり良くなかったという話も聞きますし、大学時代はヨット部に明け暮れていたとか。さらには、弟さんがヨット遭難事故で亡くなるという悲しい出来事もあったそうです。今回は、麻生太郎さんの学歴や学生時代のエピソードについて詳しく見ていきたいと思います。
- 麻生太郎さんの出身大学や高校はどこ?
- 学生時代の成績や部活動は?
- オリンピックに出場したというのは本当?
- 弟さんが亡くなった遭難事故とは?
- 漢字の読み間違いが多い理由
麻生太郎の出身大学は?学習院大学の政治経済学部を卒業
1. 学習院大学政治経済学部に内部進学
麻生太郎さんは、学習院大学の政治経済学部政治学科を卒業されています。1959年に学習院大学に入学し、1963年に卒業されたという記録が残っているんですよね。学習院高等科から内部進学という形で大学に進まれたようです。
学習院といえば、皇族の方々も通われる名門校として知られていますよね。麻生太郎さんは小学校から大学まで一貫して学習院で学ばれたので、まさに学習院のエリートコースを歩んだということになります。ただ、後ほど詳しく紹介しますが、成績はそれほど良くなかったみたいなんです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 麻生太郎(あそう たろう) |
| 生年月日 | 1940年9月20日 |
| 出身地 | 福岡県飯塚市 |
| 出身大学 | 学習院大学政治経済学部政治学科 |
| 留学先 | スタンフォード大学大学院、ロンドン大学政治経済学院 |
| 主な経歴 | 第92代内閣総理大臣、副総理、財務大臣など |
2. 国立大学を目指したが父親に反対された
実は、麻生太郎さんは大学受験の時に国立大学への進学も考えていたそうなんです。でも、父親の太賀吉さんに「お前は役人になりたいのか」と反対されてしまったんですよね。
当時の麻生家では、国立大学は役人を育てる学校というイメージが強かったようです。麻生太郎さん自身も「親の跡を継いで経営者になることが目標だったので、官学に行く必要はないと思った」と後に語っています。家業である麻生セメントを継ぐことを考えると、確かに国立大学よりも自由な校風の私立大学の方が合っていたのかもしれませんね。
結局、小学校からずっと通っていた学習院大学に内部進学することになったわけです。父親の考え方が麻生太郎さんの進路に大きな影響を与えたということですね。
3. 大学時代はヨット部に明け暮れる日々
麻生太郎さんは学習院大学在学中、ヨット部の活動に没頭していたそうです。本人が後にインタビューで語ったところによると、「ひたすら横浜でヨット部の活動をしていたから、学校にはほとんど通っていなかった」とのこと。
学習院大学のキャンパスは東京の目白にあるのですが、麻生太郎さんは横浜のヨットハーバーに入り浸っていたんですよね。たまに目白のキャンパスに来たとしても、学校の外で遊んでばかりだったと本人が認めています。授業の思い出がほとんどないというのは、相当ヨットに熱中していたということでしょう。
部活動に熱心なのは悪いことではありませんが、大学の勉強はどうしていたのか気になりますよね。その辺りは次のエピソードで明らかになります。
4. 友達のノートを借りてテスト直前に勉強していた
授業にほとんど出席していなかった麻生太郎さんですが、どうやって単位を取得していたのでしょうか。本人によると、「友達からノートを借りて、直前にテスト勉強して間に合わせていた」とのことです。
不可を食らわなければいい、という姿勢で試験に臨んでいたそうで、いわゆる「要領が良い」タイプの学生だったんですよね。真面目にコツコツ勉強するというよりも、ポイントを押さえて効率的に単位を取得していたということでしょう。
こういう学生は今でもいますが、ちゃんと卒業できているわけですから、麻生太郎さんなりの学習スタイルがあったのかもしれません。ただ、このスタイルが後々の「漢字読み間違い」につながっているという指摘もあるんですよね。
出身高校は学習院高等科!中学時代から内部進学
1. 学習院中等科から高等科へ内部進学
麻生太郎さんは、学習院中等科を卒業後、学習院高等科に内部進学しています。1956年に中等科を卒業し、同年に高等科に入学、1959年に卒業されているんですよね。
学習院では中等科から高等科への進学がスムーズにできるシステムになっているので、麻生太郎さんもそのまま進学したという形です。学習院高等科は、政治家や財界人など多くの著名人を輩出している名門校として知られていますよね。
中学・高校時代も、麻生太郎さんは祖父である吉田茂の影響を強く受けながら成長したようです。ただ、成績に関しては意外な事実があったんです。
2. 中学時代は145人中140番という成績だった
驚くべきことに、麻生太郎さんは学習院中等科時代、145人中140番という成績だったそうなんです。かなり下位の成績ですよね。同級生の証言によると、特に国語と算数の成績が悪かったとのことです。
名門校の学習院に通っていても、成績が良いとは限らないということですね。麻生太郎さん本人も後に「勉強が得意ではなかった」と認めています。小学校の初等科時代から成績は芳しくなかったようで、学習院に編入した時点で既に苦労していたみたいなんですよね。
それでも内部進学で高校、大学と進めたのは、学習院という学校のシステムと、麻生家という名門の力があったからかもしれません。
3. 優秀だった弟・次郎さんに劣等感を抱いていた
麻生太郎さんには弟の次郎さんがいたのですが、次郎さんは非常に優秀な生徒だったそうです。麻生太郎さんが成績不振で悩んでいる一方、弟さんは勉強もスポーツもできる優等生だったんですよね。
兄弟で比較されることは辛いものです。麻生太郎さんも弟さんに対して劣等感を抱いていたのではないかと言われています。ただ、後に紹介する遭難事故で弟さんを亡くすという悲劇が起こるわけです。
兄弟間の競争心や劣等感は、多くの人が経験することですよね。麻生太郎さんの場合、それがかなり強かったのかもしれません。
小学校は福岡から学習院初等科に編入!祖父・吉田茂の影響
1. 父が作った麻生塾小学校に2年生まで通っていた
麻生太郎さんは、もともと福岡県筑豊にあった麻生塾小学校に通っていました。この学校は、父親の太賀吉さんが炭鉱で働く作業員の子どもたちのために作った学校だったんですよね。
麻生家は炭鉱経営で財を成した一族で、地元の教育にも力を入れていたわけです。麻生太郎さんは小学2年生までこの学校に通い、地元の子どもたちと一緒に学んでいました。筑豊という炭鉱の町で育ったことは、麻生太郎さんの原点になっているのかもしれません。
ただ、小学3年生になる時に大きな転機が訪れます。上京して東京の名門校に編入することになったんです。
2. 吉田茂内閣の発足で上京し学習院初等科に編入
1949年、麻生太郎さんが9歳の時、祖父の吉田茂が再び総理大臣に就任しました。これをきっかけに、母親の和子さん(吉田茂の娘)の意向で、麻生太郎さんは上京して学習院初等科に編入することになったんですよね。
母親としては、総理大臣の孫が地方の小学校に通っているよりも、東京の名門校で教育を受けさせたいと考えたのでしょう。学習院初等科は皇族も通う学校ですから、箔をつけるという意味もあったと言われています。
ただ、筑豊から東京への環境の変化は、当時の麻生太郎さんにとって大きなものだったはずです。地元の友達と別れて、見知らぬ東京で新しい学校生活を始めるのは不安だったでしょうね。
3. 祖父・吉田茂に授業そっちのけで遊びに連れ出された
学習院初等科に編入した麻生太郎さんですが、祖父の吉田茂に授業をサボって遊びに連れ出されることがあったそうです。動物園や落語の寄席に連れて行かれたというエピソードが残っているんですよね。
総理大臣が孫を学校から連れ出して遊びに行くというのは、今では考えられない光景ですよね。吉田茂は孫を非常に可愛がっていたようで、勉強よりも様々な経験をさせたいと考えていたのかもしれません。
ただ、これが麻生太郎さんの成績不振の一因になっていたとも言われています。授業に集中できない環境だったわけですから、当然といえば当然かもしれません。
4. 日米安保条約への反感で攻撃の対象にされた
1960年の日米安保条約改定の際、祖父の吉田茂が関与していたこともあり、麻生太郎さんは学校で攻撃の対象にされることがあったそうです。当時は安保闘争が激しく、吉田茂の孫というだけで風当たりが強かったんですよね。
政治家の家族が学校で辛い思いをするというのは、今でもあることかもしれません。麻生太郎さんにとって、初等科時代は決して楽しいものばかりではなかったでしょう。
祖父の影響を強く受けながらも、その代償として苦労した部分もあったということですね。こういった経験が、後の政治家としての麻生太郎さんを形成していったのかもしれません。
大学卒業後はアメリカとイギリスに留学!
1. スタンフォード大学大学院で政治学を学ぶ
麻生太郎さんは学習院大学を卒業後、1963年にアメリカのスタンフォード大学大学院に留学しています。スタンフォード大学といえば、世界トップクラスの名門大学ですよね。そこで政治学を学んでいたわけです。
大学時代はヨット部に明け暮れていた麻生太郎さんですが、卒業後は真面目に勉強する気になったのでしょうか。それとも、家族からの期待もあって留学を決意したのかもしれません。
スタンフォード大学のあるカリフォルニアは気候も良く、勉強する環境としては最高だったはずです。ただ、ここで思わぬ事件が起こるんですよね。
2. カリフォルニア訛りの英語で祖父に驚かれる
スタンフォード大学に留学中、祖父の吉田茂がマッカーサー元帥の葬儀でサンフランシスコを訪問しました。その際、麻生太郎さんがホテルでルームサービスを頼んだところ、その英語がカリフォルニア訛りだったんですよね。
吉田茂は伝統的なイギリス英語を重視する人だったので、孫のカリフォルニア訛りの英語に驚いてしまったわけです。「麻生家にそんな学歴は不要だから帰って来い」と言われてしまったそうなんです。
英語の発音一つで留学を中断させられるとは、かなり厳しい祖父ですよね。でも、吉田茂にとっては、孫には正統な教育を受けてほしいという思いがあったのでしょう。
3. 送金を止められて船で2週間かけて帰国
祖父の吉田茂から帰国を命じられた麻生太郎さんですが、さらに追い打ちをかけるように親から送金を止められてしまったそうです。飛行機のチケットを買うお金もなく、仕方なく船で2週間かけて帰国することになったんですよね。
今では考えられないような話ですが、当時は船での帰国も珍しくなかったわけです。それにしても、留学先から送金を止められて強制帰国させられるというのは、かなり厳しい仕打ちですよね。
麻生太郎さん自身、この時の経験をどう思っていたのでしょうか。悔しい思いをしたのか、それとも家族の意向に従うのが当然だと思っていたのか。いずれにせよ、スタンフォード大学での留学は中途半端に終わってしまったわけです。
4. その後ロンドン大学政治経済学院で経営学を学ぶ
帰国後、麻生太郎さんは改めて1965年にイギリスのロンドン大学政治経済学院(LSE)に留学しています。今度は伝統的なイギリス英語を学べる環境で、経営学を専攻したんですよね。
ロンドン大学政治経済学院は、経済学や政治学で世界的に有名な大学です。祖父の吉田茂も納得の留学先だったのでしょう。ここで麻生太郎さんは、将来家業を継ぐための経営学を学んだわけです。
スタンフォード大学での失敗を経て、今度はしっかりと勉強したのではないでしょうか。イギリスでの留学経験が、後の麻生太郎さんのキャリアに大きな影響を与えたことは間違いありません。
学生時代のエピソード① 20歳でクレー射撃を始めモントリオールオリンピックに出場
1. 父親の影響で射撃を始め翌年には国体で優勝
麻生太郎さんは20歳の時、父親の影響でクレー射撃を始めました。クレー射撃というのは、空中に放たれた皿状の標的を散弾銃で撃ち落とすスポーツですよね。かなり高級なスポーツとして知られています。
驚くべきことに、射撃を始めた翌年には国体で優勝してしまったんです。これは相当な才能があったということでしょう。勉強は苦手でもスポーツの才能はあったということですね。
父親の太賀吉さんも射撃が趣味だったそうで、その影響で麻生太郎さんも射撃の世界に入っていったわけです。親子で同じ趣味を持つというのは素敵なことですよね。
2. 何度も日本選手権を制覇する腕前だった
麻生太郎さんは国体優勝の後も射撃を続け、何度も日本選手権を制覇する腕前になりました。単なる趣味のレベルを超えて、トップアスリートとして活躍していたんですよね。
クレー射撃は集中力と冷静さが求められるスポーツです。麻生太郎さんは政治家としても冷静沈着なイメージがありますが、その土台は射撃で培われたのかもしれません。
日本選手権を何度も制覇するというのは、本当にすごいことです。勉強は苦手でも、得意分野では圧倒的な実力を発揮できる人だったということですね。
3. 1976年モントリオールオリンピックで41位という結果
麻生太郎さんの射撃の実力は、ついにオリンピック代表にまで到達しました。1976年のモントリオールオリンピックに、クレー射撃のスキート競技で日本代表として出場したんですよね。
オリンピックに出場するというのは、アスリートにとって最高の栄誉です。結果は41位だったそうですが、世界の舞台で競技できたこと自体が素晴らしいことですよね。
当時の麻生太郎さんは36歳で、既に家業の麻生セメントに入社していました。仕事をしながらオリンピックに出場するというのは、かなりハードなスケジュールだったはずです。
4. オリンピック出場を機に射撃競技をやめた
モントリオールオリンピック出場後、麻生太郎さんは射撃競技から引退しました。オリンピックという目標を達成したことで、一区切りをつけたかったのかもしれません。
また、当時は家業の麻生セメントで社長を務めるようになり、仕事が忙しくなったという事情もあったでしょう。政治家としてのキャリアも見据えていた時期ですから、射撃に割く時間がなくなったのかもしれませんね。
それでも、射撃で培った集中力や精神力は、後の政治家としての活動に大いに役立ったはずです。学生時代から続けてきたスポーツが、人生の財産になったということですね。
学生時代のエピソード② 実弟・次郎さんが学習院大学ヨット遭難事故で亡くなる
1. 1964年に学習院大学ヨット部の遭難事故が発生
1964年3月20日、学習院大学ヨット部の遭難事故が発生しました。これは学習院大学の歴史の中でも最も悲しい事故の一つとして記録されています。神奈川県の三浦半島沖で、ヨット部の学生たちが訓練中に遭難してしまったんですよね。
当時は海が荒れていたようで、ヨットが転覆してしまったそうです。自衛隊まで出動する大規模な捜索が行われましたが、残念ながら全員を救助することはできませんでした。
この事故は当時大きなニュースになり、学習院大学に大きな衝撃を与えました。麻生家にとっても、取り返しのつかない悲劇となったわけです。
2. 実弟の麻生次郎さんを含む5名が死亡
この遭難事故で、麻生太郎さんの実弟である麻生次郎さんを含む5名の学生が亡くなりました。次郎さんは当時学習院大学のヨット部に所属していて、兄と同じようにヨットを愛していたんですよね。
前述したように、次郎さんは優秀な学生で、兄の麻生太郎さんとは対照的な存在でした。そんな弟さんが若くして命を落とすというのは、麻生家にとって計り知れない悲しみだったでしょう。
麻生太郎さん自身も大学時代にヨット部に所属していたわけですから、弟が同じヨットで命を落としたことは、特別な思いがあったはずです。
3. 麻生太郎はスタンフォード大学留学中だった
この事故が起きた時、麻生太郎さんはスタンフォード大学に留学中でした。1963年に学習院大学を卒業し、すぐにアメリカに渡っていたので、事故の知らせはアメリカで受け取ったことになります。
遠く離れたアメリカで弟の訃報を聞いた時、麻生太郎さんはどんな気持ちだったのでしょうか。すぐに帰国したのか、それともしばらくアメリカに留まったのか、詳細は明らかになっていません。
この事故の後、前述のようにカリフォルニア訛りの件で祖父に怒られて帰国することになるわけですが、弟の死も帰国の理由の一つだったのかもしれませんね。家族にとって辛い時期だったことは間違いありません。
学生時代のエピソード③ 漢字の読み間違いが多い理由は?
1. 首相時代に国会答弁で漢字の読み間違いが多発
麻生太郎さんといえば、首相時代の漢字の読み間違いで話題になりましたよね。国会答弁で何度も漢字を誤読してしまい、野党やマスコミから批判を受けたんです。
政治家として重要な場面で漢字を間違えるというのは、確かに問題かもしれません。でも、なぜ麻生太郎さんは漢字の読み間違いが多かったのでしょうか。その背景には、学生時代の経験が関係していると言われています。
漢字の読み間違いだけで政治家の能力を判断するのは適切ではありませんが、国民に与える印象としては良くなかったのは事実ですよね。
2. 「未曾有(みぞうゆう)」「踏襲(ふしゅう)」などの誤読
麻生太郎さんが間違えた漢字の代表例としては、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだり、「踏襲」を「ふしゅう」と読んだりしたことが有名です。他にも「頻繁」を「はんざつ」、「怪我」を「かいが」、「低迷」を「ていまい」など、数多くの誤読がありました。
これだけ多くの漢字を間違えるというのは、やはり何か理由があるはずです。単なる勘違いや読み間違いではなく、漢字に対する基礎知識が不足していたのかもしれません。
ただ、麻生太郎さんは英語が堪能で、海外での評価は高いんですよね。日本語の漢字は苦手でも、英語でのコミュニケーション能力は優れているというのは興味深い点です。
3. 学習院初等科時代の同級生が「国語の成績が悪かった」と証言
麻生太郎さんの漢字読み間違いの背景には、学生時代の国語の成績が関係していると言われています。前述したように、学習院初等科時代の同級生が「国語と算数の成績が特にひどかった」と証言しているんですよね。
小学校時代から国語が苦手だったとすれば、漢字の読み書きが苦手なのも納得できます。さらに、大学時代は授業にほとんど出席せず、友達のノートを借りて試験対策をしていたわけですから、基礎的な学力を身につける機会が少なかったのかもしれません。
ヨット部や射撃に熱中していたことは素晴らしいことですが、その分、勉強の時間が犠牲になっていたということでしょう。学生時代の学習習慣が、後々まで影響を与えた典型的な例かもしれませんね。
麻生太郎の学歴に関する疑問まとめ!
まとめ
麻生太郎さんの学歴と学生時代について、様々なエピソードを紹介してきました。名門・学習院で育ちながらも、成績は決して良くなかったという意外な一面が分かりましたよね。
- 麻生太郎さんは学習院初等科から大学まで一貫して学習院で学んだ
- 中学時代の成績は145人中140番でかなり下位だった
- 大学時代はヨット部に没頭し授業にはほとんど出席していなかった
- スタンフォード大学留学中にカリフォルニア訛りを祖父に指摘され帰国させられた
- 20歳で射撃を始め1976年モントリオールオリンピックに日本代表として出場した
- 1964年に実弟の次郎さんが学習院大学ヨット遭難事故で亡くなるという悲劇があった
- 首相時代の漢字読み間違いは学生時代の国語の成績不振が影響していると言われている
- 英語は堪能でロンドン大学政治経済学院で経営学を学んだ
勉強は苦手でもスポーツで才能を発揮し、オリンピックにまで出場したというのは本当に素晴らしいことです。また、弟さんを亡くすという辛い経験も乗り越えて、政治家として成功されているわけですから、人生の強さを感じますよね。学生時代のエピソードを知ると、麻生太郎さんという政治家の人間性がより深く理解できるのではないでしょうか。

